本編
32
 男は僕を担いで外にあるポリバケツに無造作に置いた。男のどこにこんな力があるのだろう。殴り合いの喧嘩に無縁だった僕にとって先ほどの腹部への殴打は、気持ちまでへし折った。
 痛さと怖さの中、僕は男を見た。爬虫類のような熱のない目で見下ろされ、このまま踏みつけられるのではないかと危惧した。
 けれども僕の心肺は杞憂(きゆう)に終わった。男はわずかに口角を上げた。

「いるんだよ。お前みたいな客。嬢に恋をしちまって、振られたのに気付かない、受け入れられないまま突っかかってくる奴。なあ、風俗嬢なんて彼女にしたいか? お前は女だったら誰でもいいわけか? 発情期のお猿さんがよ」

 僕が発情期の猿? 大学という檻の中にいるオラウータンに嫌悪し続けた僕が、まさか猿扱いをされるなんて。

「み、瑞希は違う。瑞希だけは周りと違うんだ」

 そうだ。瑞希は風俗嬢だけど、周りとは違うんだ。僕にだけ心を開いてくれる存在。明るくて、優しくて、太陽みたいな存在なのだ。

「一緒だよ。あいつだって風俗嬢に変わりはねえ。なんだっけな、彼氏の紹介じゃなかったか。彼氏の借金を背負わされて仕方がなしにこの店へ来たはず。まあ、彼氏は当然別れたみたいだが。ん? 別れたというか逃げられたのか。そりゃあそうだよな」

 そう言って下品に笑う男の笑い方は不愉快だった。

「嘘だ。瑞希がそんな彼氏なんているわけがないだろ」

 僕の頭は血が上りっぱなしでクラクラとしていた。立ち上がろうにも腹部の痛みと、男への恐怖心から足に力が入らなかった。
 僕が店へ通い始めてすぐに、瑞希の彼氏の有無が気になって仕方がなかった。過去の恋愛から、今の恋愛まで。ある日思い切って瑞希に尋ねた。

「いるわけないじゃん。私はキー君一筋だよ。今までも、これからも」

 濡れた瞳に嘘は隠されていなかった。あの目は確かに僕だけを見つめていた。
 そんな僕たちのことなんて知らない男は更に大きな声で笑った。

「バカだなあ。お前は正真正銘のバカだ。風俗嬢なんて嘘をついてなんぼの職業じゃないか。風俗に来る奴なんてのは大抵二つに一つだ。まずは金が余って性欲を発散させたい奴。そして二つ目はお前みたいに嬢に恋をした奴だ。お前は間違いなく後者で、厄介な客に成り下がった典型的なクズだ」

 バカだのクズだの罵られ、僕は唇を噛んだ。お前に瑞希の何が分かる? たかが従業員の分際で。
 けれどもいくら僕が心の中でそう思おうが、口に出すことはなかった。もう殴られたくなかったし、下手に言って店から出入りを禁止されるのが怖かったからだ。

 そう。あの時の僕はまだ瑞希が店にいるものだと思って止まなかった。きっとプロポーズをされたと男に話してしまい、どこかへ幽閉されてしまったのだ。
 店のナンバーワンに辞められてしまっては困るといって。

■筆者メッセージ
何でも昨夜はヤクルトが10点差のゲームをひっくり返したとか。
ヤクルトファンならそれを見た瞬間絶頂射精しますけど、中日ファンはたまったもんじゃありませんよね。
( 2017/07/27(木) 21:24 )