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結局、日奈子が寝たのは母親の部屋である。眠くなったからと、さっさと会話を打ち切った日奈子が向かったのは、自室ではなく両親が寝る寝室であった。
もっとも、会話に付き合わされた圭介が一番の被害者ではなく、普段は母親と寝る父親だった。日奈子が寝室で寝てしまったものだから、寝る場所を失ってしまった父親は仕方なしにリビングのソファーで寝ることとなった。
妹である。娘に甘い父親は雷に怖がる日奈子を見て、まだまだ子供だと笑いながらリビングで寝ることを甘受した。これが圭介なら、こうもいかなかったことだろう。母親にしても、娘の日奈子ならと結局甘受したのだ。
かといって、圭介がそのことで日奈子を羨むことはなかった。むしろ、両親と同じ感想を抱いたものだ。思春期真っ只中で可愛げのなくなった妹が、久しぶりに可愛らしいと感じた。
これも兄ゆえのことなのかもしれない。いわば日奈子は北野家にとってのペットのようなものか。
雨は明け方には止んだ。
アスファルトには昨晩降った痕跡がはっきりと残されている。水溜りを避けるようにしてバス停まで行くと、やはり長蛇の列があった。
――もしかしたら、またあの子に会えるかもしれない。
結局、昨日はあれから彼女と会うことはなかった。新聞部の活動において、料理部以外を重点的に回ればよかったのだろうが、どうしても行きづらい部があるのも事実だった。
バスがやって来る。料金を支払い、中へと押し込まれる。昨日とまるで同じだった。あとは彼女さえ目の前にいてくれたら――。
「あ、北野君。おはよう」
グググと押し込まれて進んだ先にいたのは昨日の女生徒ではなく、七瀬だった。普段は真っ直ぐに伸ばしている髪の毛が、今日は頭の上で結ばれていた。いわゆるポニーテールである。
たまに彼女は髪形を変える。これもまた女性らしかった。
「おはようございます。今日はバスなんですね」
「そうやねん。昨日雨が降ったから水溜りばかりだったから」
バスが発車する。車内は人で溢れていた。
「混んでますね」
「うん。いつも北野君はバスやったっけ?」
吊革に掴まろうとするが、空いている吊革はなかった。
「いや、自転車なんですけど、部長と同じです」
「そっか。ななもバスに慣れてへんから」
七瀬もまた、吊革に掴まれなかったようで、何とか体勢を保とうとしている。
と、バスがブレーキをかけ、乗客は前方に大きく動いた。そのせいで七瀬の身体が圭介に突っ込んだ。
「大丈夫ですか」
「うん。ごめんな」
圭介の胸の中にちょうど七瀬が収まる形となった。平穏を装っているが、圭介は内心胸が大きく跳ね上がった。こんな近くで七瀬の顔を見るのは、彼女に新聞部へ入ってくれと懇願されて以来だった。
実は懇願されたあの日、圭介は七瀬の容姿に見惚れた。美人というわけではなかったが、守ってやりたくなるようなか弱さを感じ取った。
あわよくば、お付き合いまではいかなくとも、いい思いが出来るかもしれない。
そんな邪な考えを持って入部したが、それがようやく果たされる日が来たような気がした。