三束目
第21花―ツユクサ
「そう…、“僕”だよ。ずっと菊野君といるって約束した“僕”だよ。」

そう言ってから私を待っていたのは無音の世界。来慣れたファミレスで聞こえるはずのポップスが多めのBGMや他のお客さんの話声、キッチンで調理する音。そのどれもが私の耳には届かなかった。

菊野君の反応を待つ。どう考えても、普通ならここまで正体を明かさずに元同級生に向けられる感情はきっと「気持ち悪い」とか「おかしい」だ。私は俯いて判決を待つ被告人のように耳を傾ける。判決を言い渡す裁判長の声を。


「ははっ」
私の耳に菊野君の笑い声が届いた。恐る恐る顔を上げると彼は笑っていた。
「理々杏だったんだね。言ってくれればよかったのに…。中学の頃よりも綺麗になってたから気づかなかったよ」

予想外の返答だった。予想外すぎて動揺した。
「う、うん。菊野君は分からなかったみたいだから私もショックを受けたくなくて。『誰?』ってなるのが嫌で」
何を言ってるかわからない。支離滅裂だった。

「覚えてるに決まってるじゃん!あの町で一緒に過ごしてたんだし」
「そ、そうだよね。私どうかしてたね」
「それより、もう“僕”じゃないんだね」
「高校の時にね、変えたんだ頑張って」
「“僕”のままでも良かったのに」

微かに、いやきっと確かに体温が上がった気がする。菊野君が前までと同じように接してくれている。それにしっかり覚えていてくれている。井上小百合としてではなく、伊藤理々杏として。それだけでもう死んでもいいくらいに嬉しかった。これ以上の幸せはない。


もともとの目的なんか忘れて思い出話に花を咲かせた。彼の悩みもきっと、一時の間だけかもしれないけど忘れられただろうと思う。それに、昔の関係に戻れたのだからきっといつか打ち明けてくれるだろう。


そう、昔のように。自分を偽ることなく自然体で菊野君といられるこの時間を。
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■筆者メッセージ
またぼちぼちと更新できればなと思います。
Hika ( 2020/04/03(金) 21:32 )