07 幸せになってください。
その日の仕事終わり。
店を出た俺の目の前にいた。
「久しぶりね」
「お久しぶりです」
明かりに照らされた白い肌。
控えめな微笑み。
「こんな夜遅くに出歩いちゃっても大丈夫なんすか?旦那さん怒りますよ」
「いいのよ。どうせ今は海外出張に行ってるもの。心配する必要もないし」
「そういえば人妻でしたね。もう結婚式とかしたんですか?」
「人妻って言わないで。あなたね、まだ式も挙げてないのよ」
お嬢様と話すとなんだか楽しい。
嫌なことがあってもすぐ忘れる。
自然に笑みがこぼれる。
「なに笑ってるのよ」
「い、いや別に。何でもないです」
「変なひと。つくつぐそう思うわ。あなたってほんとに変よね」
「いやいや。俺は至って普通です」
「どうだか。分からないわよ」
話が一旦落ち着いた。
急に黙り込んだお嬢様。
「もう、あなたに会うこともないだろうから最後に会いに来たのよ。私が見た中で一番変わった料理人だったあなたに。変わってるけどあなたの腕は確かだったわね」
「ありがとうございます」
「8月の結婚式には呼ぶから。バリ島で挙げるから来れたら来て料理ぐらい作ってよね」
「分かりました。バリ島の渡航費用はちゃんと貯めときますよ」
「はいはい。じゃあもう行くわよ」
お嬢様がくるりと方向を変える。
そのままゆっくりと歩いていく。
なんで俺は動かないんだ。
最後に気持ちぐらい伝えろよ。
なんで何もしようとしないんだよ。
「あ、あの!お嬢様」
お嬢様はゆっくりと立ち止まる。
振り向いてじっと俺を見る。
「・・・幸せになってください」
お嬢様はクスクス笑う。
手で口元を抑えながら微笑んだ。
「あなたも。もし縁があったらまたいつかどこかで会えるといいわね」
そのままお嬢様は歩いていった。
結局最後まで言えなかった。
俺は臆病のままだったんだ。
お嬢様は遠くに行ってしまった。
もう二度と俺の前に現れない。
お嬢様に対しての最後の言葉は俺にとっては半ば本心でもある。
夢のような時間はもうおしまい。
それは分かりきったこと。
もしも願うことならもう1度。
ほんの一瞬だけだけで構わない。
お嬢様の笑った顔がもう一回見たい。
叶うことのない俺の儚い願い。