01
この日、篠田は学校終わりに渋谷へと足を運ばせていた。
先日金村にお願いしておいた手話の教材を例のセンター街奥の洒落たカフェで受け取る約束をしていたからだ。
電車からホームに降り立ち、スマホを開くと、もうすでに店に着いて待っていると彼女から連絡が来ていた。
迷路のような駅構内を慣れた足取りで進んでいき、ハチ公口から無事に出てくることが出来た篠田は、そこから見たスクランブル交差点の景色を見て、少し懐かしさを感じていた。
「ごめん、遅くなった」
指定されたカフェに入ると、メロンソーダが入ったグラスにストローを指して、それをゆっくりと一人飲んでいる金村の姿が目に付いた。
店の隅のテーブル席に座っていた彼女の対面になるように、篠田は滑り込むように座った。
「あっ、全然。私もさっき来たところなので」
そういう彼女のクリームソーダはすでに半分飲み干されているようであったが、日向坂高校に通う女子生徒たちはこういう気遣いが出来る育ちの良い生徒たちが多いという話を篠田は脈絡も無く思い出した。
「はい、私が菜緒のために覚えた教材がこれです」
そういって彼女がカバンから取り出したのは、本の横側から大量の付箋がびっしりと詰まった分厚い書籍2冊だった。
以前、彼女から聞いていた話では教材の量は少ないと聞いていたはずだったが、思いもしなかった光景に篠田は開いた口が塞がらずにいた。
「何、コレ」
「教材です」
「それは見たら分かるんだけど・・・」
「裏表紙に解説の動画が見れるサイトのURLが書いてあるんで、これを見ながら読み進めてくださいね」
彼の反応に気付いているのかいないのか定かではないが、金村は何事もなかったかのように話を続けた。
篠田はそれに何も言わず、少し苦笑いを浮かべたまま、教材を有難く受け取った。
「そういえば今日、小坂さんは?」
「今日は一人で帰りました。さすがに毎日一緒にいられると、あの子も迷惑だろうし。それに菜緒も自分で出来ることは、出来る限り自分でやり遂げていきたい性格なので、私もそこは任せてるんです」
「なんか友達というより、母親みたいだね」
失礼なことを言ってしまったかと口に出してから篠田は少し気にかけたが、思ったよりもその言葉に嬉しそうな反応を金村は示していた。
しばらくしてウェイトレスが遅れて運んできたアイスカフェオレを口にしながら、篠田は彼女に気になっていたことを尋ねてみた。
「そういえばさ、前に小坂さんから、俺のこと"ティラノサウルス"って例えられたんだけど、金村さんはどういう意味だと思う?」
「なんですか、それ」
「いや、俺も何のことだかさっぱり。ほら」
そう言って、彼女とのメッセージのやり取りをスマホの画面に映して金村に見せると、彼女はそれを見てうーんと少し考えてから答えてくれた。
「多分なんですけど、菜緒にとって"憧れのヒーロー"って意味なんじゃないかな」
「俺が?どうして」
「私は知らないですよ。何か心当たりはないんですか?」
「心当たりか・・・」
そう言われたものだが、これといった心当たりが全くない。
いったいなぜ自分のような人間が、彼女の"憧れのヒーロー"なのか。
篠田は考えを巡らせるも、その答えがぽうっと浮かび上がってくることはなかった。